赤間神宮|神社

赤間神宮の写真

赤間神宮

所在地:山口県下関市阿弥陀寺町4-1
撮影日:2014年01月12日
掲載写真:24枚
主祭神:第八十一代安徳天皇


赤間神宮(あかまじんぐう)は源平合戦の最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」(1185年)により幼くして崩御した第81代安徳天皇を祀った神社です。元はお寺(阿弥陀寺)でしたが、明治の神仏分離により神社になりました。境内には「耳なし芳一」で有名な芳一堂があり、またここが平家終焉の地ということで平家一門の墓(七盛塚)があります。今回参拝していないため画像がありませんが、安徳天皇陵もあります。
画像は赤間神宮鳥居をくぐってから境内奥(本殿)へ向かっていく順番で掲載しています。

境内の狛犬の詳細は「狛犬サイト」で確認してください。


赤間神宮は大きな道路のすぐ傍にあり、道路の向こうは海です。
神門は竜宮城を模した楼門「水天門」で、非日常的な感じがして管理人は好きな景色です。


今回の参拝で、管理人は「八咫鏡」の石碑に非常に興味を持ちました。皇位を証明する「三種の神器」の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が源氏の手を逃れて隠されていたという伝説があったなんて、管理人は全く知らなかったので、石碑を見つけてワクワクしてしまいました。


赤間神宮はいわゆる安徳天皇の墓地(安徳天皇陵)になりますが、そういえば確か豊田町には安徳天皇陵墓参考地があったと思います。安徳天皇陵は実はいくつか存在しているんですよね。こういうのもロマン、ですよね。
豊田町の安徳天皇陵墓参考地は遥か昔に訪れたため場所も様子もほとんど忘れてしまいましたが、山の中にあって不思議な気持ちになったのを覚えています。「伝説だからすべて間違い」ではなくて、「伝説として守られてきたことそのものが歴史であり真実」なのだと、改めて思ってしまいます。
‥‥なんちゃってw

 

 

【計24枚掲載】
記:2014年11月09日
編集:2018年03月17日

 

 

 

赤間神宮の鳥居

 

赤間神宮入口にある鳥居の写真です。神額には「赤間神宮」とあります。

 

 

 

赤間神宮神門「水天門」

赤間神宮水天門の写真

 

赤間神宮の鳥居をくぐると神門「水天門」が見えてきます。

名称の由来については、赤間神宮の公式ホームページを確認してみました。

「水天門」は壇之浦合戦の時に二位の尼が「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠んだことに由来しています。明治9年に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が「いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこのみゆき思へば」との御歌を詠まれ、この縁により昭和33年に世界唯一の竜宮造りで造営されたそうです。竜宮城を模した楼門、ということですね。

赤間神宮の祭神である安徳天皇は「水天皇大神」と称されており、徳富蘇峯は奉建に際して「玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり」と説明しています。つまり、安徳天皇が水天宮の祭神であることから、赤間神宮の神門を「水天門」と呼ぶわけです。

 

赤間神宮神門「水天門」の写真
赤間神宮水天門の写真

 

水天門は赤色と白色の対比が素晴らしく映えていて、本当に竜宮城の入り口を訪れた気持ちになりました。
まるで別世界への入り口のようです。

 

ちなみに水天門の扉の写真を撮影していたので、特別に掲載してみました。

管理人は扉を見るとなぜか、撮影したくなります。


 

 

赤間神宮水天門(拝殿側より撮影)

赤間神宮水天門を本殿側から撮影した写真

 

こちらは赤間神宮拝殿側から水天門を撮影した写真です。立派ですねぇ。

 

 

 

赤間神宮狛犬

階段下の狛犬

赤間神宮の拝殿に向かう階段の下に、1対の狛犬が置かれていました。

画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

説明板にはどちらが阿形で吽形なのかの記述はありませんでしたが、拝殿に向かって右側にいるのが阿形、左側にいるのが吽形だと判断しました。

説明板によると、階段下の狛犬は阿形が「玉取りの狛犬」で父獅子、吽形が「子取りの狛犬」で母獅子だそうです。平成7年(1995年)に奉献されており、中国大連の花崗岩でできているそうです。
たてがみロールぶりが管理人のお気に入りです!

狛犬サイトへ

 

 

 

拝殿前の狛犬

赤間神宮拝殿の前に配置されていた狛犬です。

画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。阿形は口を開け、吽形は口を閉じています。

筋骨隆々ぶりが素晴らしいですね!
表情がハッキリしていて猛々しい雰囲気で、管理人は好きな狛犬です。
製作年はわかりませんが、ちょっと新しい感じがします。

狛犬サイトへ

 

 

 

 

赤間神宮拝殿

赤間神宮拝殿の写真

 

赤間神宮拝殿の写真です。

もっとまともに撮影した写真があれば良かったんですが、拝殿の写真はこの3枚しか撮影していませんでした。‥‥ヒドイですね(笑)

 

 

 

赤間神宮八咫鏡碑

第十代崇神天皇より第八十一代安徳天皇まで 千二百七十六年間歴代皇位継承の三種の神器

八咫鏡 奉鎮

 

 

八咫鏡発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑

維時昭和三十三年四月七日 赤間神宮に畏くも天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり 是より恰かも百日目の七月十三日 岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は予ねて郷土史研究家として知られ 地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る 春名義雄氏は此年九月十三日安徳天皇御入水の地下関市壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに 地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年 即ち昭和五十三年其の一切を竟り(おわり)来る昭和六十年五月安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当り斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり   昭和五十九年十二月吉日

赤間神宮宮司 水野久直 記

 

 

赤間神宮拝殿の横に、八咫鏡の石碑がありました。

 

「八咫鏡(やたのかがみ)」は三種の神器の一つで、壇ノ浦の戦いの際、安徳天皇が入水した時に一緒に海に沈んだものを源義経が「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と一緒に回収しました。現在の宮中賢所(かしこどころ)に置かれている八咫鏡は義経が回収したものです。

 


ですが、実は本物の八咫鏡は源氏の手を逃れて隠されていた、という伝説がありました。
本物の八咫鏡は伝説通り昭和33年に岡山県で発掘され、赤間神宮に奉献されました。発掘者が土地の所有者ではなかったことで所有権でもめて裁判沙汰にまでなりましたが、昭和53年にすべて落ち着き、現在は赤間神宮に置かれています。(この部分が石碑で説明されている部分です)
赤間神宮に奉献された八咫鏡が本物か否か、それは誰にもわかりません。
でも管理人は素敵な伝説だと思いますし、その伝説に生涯を賭けた春名氏を素晴らしい方だと思います。

 

 

 

芳一堂

 

壇ノ浦の合戦については「耳なし芳一」のお話が有名だと思います。小泉八雲の『怪談』で取り上げられたために広く知られるようになった怪談話です。

 

 

赤間神宮境内の奥にはこの「耳なし芳一」の主人公を祀った「芳一堂」があります。
盲目の芳一は無数の鬼火に囲まれて平家一門の墓地の中におり、安徳天皇の墓前で琵琶を弾いていたわけですが、その舞台となった場所が此処、下関の阿弥陀寺(現:赤間神宮)です。この「芳一堂」の横には平家一門の墓があります。

 

目を閉じ琵琶を抱えた姿の芳一像は近づいて見るとちょっとだけ怖かったです。
たぶんですが、耳はありませんでした。たぶん。

 

 

 

平家一門の墓(七盛塚)

「芳一堂」の横に「平家一門之墓」があります。

壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)で、14名が祀られています。

 

名前に「盛」の字が付く人物が多いために「七盛塚」と呼ぶそうですが、よく数えたら「盛」が付くのは6名しかいません。えっマジで!?Σ( ̄ロ ̄lll)

 

赤間神宮平家一門の墓の碑文の写真

平家一門之墓

 

 前 列

左少将    平有盛(左近衛少将平有盛)

左中将    平清経(左近衛中将平清経)

右中将    平資盛(右近衛中将平資盛)

副将能登守  平教経

参議修理大夫 平経盛

大将中納言  平知盛

参議中納言  平教盛

 

 後 列

伊賀平内左衛門 平家長

上総五郎兵衛  平忠光

飛騨三郎左衛門 平景経

飛騨四郎兵衛  平景俊

越中次郎兵衛  平盛継

 

丹後守侍従  平忠房

従二位尼   平時子