蠣久天満宮【神社】

蠣久天満宮写真

 

所在地:佐賀市鍋島町大字蛎久町1448
撮影日:2007年01月01日、2009年01月01日、2015年01月01日
掲載写真:9枚
主祭神:菅原道真公


蠣久天満宮(かきひさてんまんぐう)は佐賀県佐賀市鍋島町蛎久にあります。
通常は「蛎久天満宮」と表記されるようですが、管理人は「蠣久」という旧字の方が好きなので、以下は旧字表記で説明していきます。


蠣久天満宮は後冷泉天皇の天喜2年(1054年)、太宰府天満宮から御分霊を勧請して創建されました。祭神はもちろん菅原道真です。

太宰府天満宮、水田天満宮(福岡県筑後市)と共に「鎮西三大天満宮」と言われていましたが、元亀元年(1570年)の大友の乱(おそらく「今山の戦い」あたり?)で焼失してしまいました。

元亀4年(1574年)に龍造寺隆信が社殿を造営し、以降は龍造寺家、鍋島家に厚く信仰され、神殿、拝殿、付属建物も造営されていきます。
「佐賀市地域文化財データベースサイト」によると「同社に祀った神像は水鑑の一軸で、道真公生存中池水に影を映して自ら写したもの」だそうです。よくわかりませんが、凄いですね!


「蠣久(かきひさ)」という地名は日本神話に基づくものです。『肥前国風土記』では日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲征伐の際に蛎殻を踏みつつ上陸したことから蠣久と名づけたと書いてあるそうです。ヤマトタケルの神話は有名ですから御存知の方も多いと思います。
また「蠣久」については日本武尊の神話とともに、縄文時代の海岸線にその名が由来するとも言います。昔はこのあたりまで海岸(有明海沿岸)だったため、実際に周辺の遺跡からは多くの牡蠣殻が発見されているとのこと。


はるか昔からこの地は「蠣久」と呼ばれていて、太宰府天満宮の安楽寺領荘園でした(蠣久荘)。
この蠣久荘に鍋島の地が属しており、南北朝中後期頃(1370年~)、北野からこの地に鍋島家始祖の長岡経秀が移ってきたことから、鍋島家は当地名を取って「鍋島」を名乗っています。実際、鍋島家発祥の地と言われる「御館の森(おたちのもり)」は蠣久天満宮の近くにあります。


また、蠣久天満宮の境内には飛梅があります。太宰府天満宮の飛梅の苗を移植したもの(2世)で由緒正しい「飛梅」です。なぜ佐賀のこの地に太宰府天満宮の由緒正しい飛梅があるのか疑問でしたが、蠣久の地が太宰府天満宮の安楽寺領荘園だったことが関係しているのかもしれません。
まあ、管理人が勝手に想像しましたので本当かどうか知りません。


計9枚掲載。

 

 

 

蠣久天満宮拝殿

蠣久天満宮拝殿(2007.01.01)
2007年01月01日撮影
蠣久天満宮拝殿(2009.01.01)
2009年01月01日撮影
蠣久天満宮拝殿(2015.01.01)
2015年01月01日撮影

 

 

拝殿の紋

蠣久天満宮拝殿(屋根)

蠣久天満宮拝殿の造りは、桁行3間、梁間3間、入母屋造、正面軒唐破風付です。

天満宮の社紋は「梅」です。
太宰府天満宮の社紋は「梅花」ですが、蠣久天満宮の社紋は「梅鉢(うめばち)」のようですね。
蠣久天満宮は鍋島家の庇護を受けていましたので、屋根には鍋島家の家紋(杏葉紋)が見えます。

 

 

拝殿前の牛像

蠣久天満宮 牛像

蠣久天満宮の牛の像です。
天満宮に行くと奉納された牛の像をよく見かけます。太宰府天満宮の「撫で牛」は有名ですよね。


牛と菅原道真には深い縁があり、道真は承和12年(845年)乙丑(きのとうし)、つまり丑年に生まれており、延喜3年(903年)2月25日の丑の日に薨じています。この時、道真は「轜車(じしゃ)を牛に曳かせ牛の行くままに任せて、牛が止まったところに葬ってほしい」と遺言していて、牛が動かなくなった場所が都府楼(大宰府政庁)の北東(丑寅)の方角つまり現在の太宰府天満宮でした。(太宰府天満宮は道真の墓所です。)

 

他にも、道真が大宰府へ落ちてゆく途中で藤原時平の命を受けた笠原宿禰等が後を追って切りかかってきた時、松原の中から白牛が飛び出て宿禰の腹を突き刺し道真を助けました。この白牛は道真が可愛がっていた牛でしたが、流罪となった前夜に逃げ出していた牛でした。道真は危難を助けたこの牛を「忠義の牛」として喜び、この牛に乗って旅を続けたと言われています。

牛は天満宮の眷属(神の使い)として崇められているのです。

 

 

 

蠣久天満宮狛犬

蠣久天満宮の拝殿前の狛犬です。画像は1枚目が阿形、2枚目が吽形です。
本殿に向かって右側に吽形が、左側に阿形が置いてあります。つまり阿吽が左右逆に置いてあるのです。珍しいですよね。
どちらも岩に足をかけています。これは「岩狛」という形らしいです。

蠣久天満宮の神門前には一対の肥前狛犬がいますが、全く気付きませんでした。そもそも管理人は、蠣久天満宮の参道を通ったことがないのです(ヒドイw)


 

 

 

蠣久天満宮本殿

蠣久天満宮 本殿

蠣久天満宮本殿です。この画像では左側が本殿、真ん中が幣殿、右側の幕が張ってある建物が拝殿です。
他にも写真を撮影したつもりですが、この画像しか手元にありません。なぜでしょう?

 


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【蠣久天満宮】(佐賀市ホームページ「佐賀市都市景観重要建築物等(蛎久天満宮)」より引用)

本殿は、3間社流造、銅板葺で、正面の庇を壁や建具で仕切って前室としています。周囲には縁があり高欄が付いていますが、左側面の板扉の前にはなく、ここからの出入りを考えた造りです。随所に19世紀の建物らしい特徴があって、高欄の金物にみえる文化14年(1817年)の銘が、この建物の建立年代を示すものと考えられます。拝殿は、桁行3間、梁間3間、入母屋造、正面軒唐破風付で、後方には桁行2間、梁間1間、両下造、銅板葺の幣殿が繋がります。
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上記説明文で本殿について「高欄が左側面の板扉の前にはない」と書いてありますが、それがこの画像の本殿部分(左中央部)の板扉前のことです。高欄は、まあ、「手すり」だと思ってください。手すりが板扉前にだけ無いですよね。コレを言ってます。
この説明によると、本殿は文化14年(1817年)に建立されたということでしょうかね。
本殿、幣殿、拝殿と続いていますが、本殿は御神体を安置する社殿で、幣殿は幣帛を奉る社殿です。拝殿は祭祀・拝礼を行うための社殿で、通常、幣殿は本殿と拝殿の間にあって両社殿を繋ぐような構造になっています。

 

 

 

龍樹菩薩堂

龍樹菩薩堂

龍樹菩薩堂です。蠣久天満宮本殿の左側にあります。管理人はこの画像しか持っていませんので、なんとなく雰囲気だけ確かめてください。
以前、蠣久天満宮を訪れた時に龍樹菩薩座像の写真を撮影したと思っていましたが、どんなに探しても見当たりません。なぜでしょう?
まぁネットで検索すると画像は色々と出てきますから、そちらで確認してください。


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【龍樹菩薩堂】(佐賀市ホームページ「佐賀市都市景観重要建築物等(蛎久天満宮)」より引用)

龍樹菩薩堂は、桁行3間、梁間3間、宝形造、桟瓦葺、正面1間向拝付で、石垣を積んで基壇の上に建っています。大きな木像龍樹菩薩座像を安置する堂が神社に残されているのは貴重です。


【説明板より】(平仮名表記を読みやすいように漢字にして掲載している箇所があります)

龍樹菩薩本像は、像高3.6メートルで、楠材で作られており、寄木造りである。面部でやや堅さが認められるものの大振りの衣装を自然にまとっているなど作者の並々ならぬ彫技の程がうかがえる。頭部が体部に対してやや大きく、両耳が側頭部に平面的に密着している。全体的に細部を省略し、目鼻立ちを大きくとらえている。衲衣の両肩の上に衣をまとう南北朝時代の特徴を備えている。一方、膝頭の中央前部が直線となっておらず、膝頭の下部も内側に切れ込むという伝統性も兼ね備えている。
以上のことから、本像の製作年代は、室町時代の前期と推察される。
又、一説には次のようなことが伝えられている。
昔、有明海がこの辺まで入り江となっていた頃、海中から五色の光が立ちのぼっているのを発見した漁民たちが集まって笛を吹き、鐘を叩いて一斉に掛け声をかけて引き上げたところ、巨大な木彫りの仏像だった。それを現在の場所に移し祀ったのが、この龍樹菩薩である。又、この時のはやし踊りが、蠣久浮立の起こりとされている。佐賀では、物の大きいことを「蠣久のじゅうじ菩薩のごと」とよく例える習慣がある。
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