後鳥羽神社|神社

後鳥羽神社の写真

後鳥羽神社

所在地:佐賀県神埼市脊振町鹿路鳥羽院下
撮影日:2014年07月21日
掲載写真:22枚
主祭神:第八十二代後鳥羽天皇


佐賀県神埼市脊振町鹿路(ろくろ)に「鳥羽院(とばい)」という地名の地域があります。
この地には第82代後鳥羽天皇(ごとばてんのう)が訪れたという伝説がありますが、管理人は全く知りませんでした。「後鳥羽天皇が隠岐に流された後にやって来て、そこで亡くなったらしいよ。だってお墓もあるし神社もあるもん。」と知人に聞いたので、行ってみることにしました。
佐賀県に後鳥羽神社ですよ?ちょっと興味がわいてきませんか?

 

 

「鳥羽院(とばい)」という地名は後鳥羽天皇伝説が由来となっているようですが、なぜここは「鳥羽院」という地名なのでしょうかね?縁があるのは「後鳥羽」なのに「後」の字はどこに行ってしまったのでしょうか。

後鳥羽の「後」を抜いたら、それって第74代鳥羽天皇(とばてんのう)を指すんじゃないの?鳥羽天皇は後鳥羽天皇の曽祖父でしょ。鳥羽天皇も院政を敷いているのだから「鳥羽院」なわけで、地名の「鳥羽院」はそのまま字面だけ見たら完全に鳥羽天皇のことになっちゃうじゃん。この地に身を寄せたのは後鳥羽天皇なんでしょ?なんかヘンだよね。
なんてことを思いつつ、後鳥羽神社にへ行ってみました。

 

 

後鳥羽神社は木々に囲まれ静かな場所で、誰もいなくて、むしろ怖いぐらいでした。
でも管理人はこういう神社が大好きなのです!

 

 

ということで、佐賀県神埼町脊振町の後鳥羽神社を紹介してみたいと思います。
後鳥羽天皇は譲位して院政を敷いていますので、ここでは「後鳥羽上皇」という呼び方で統一しておきますね。(時々「後鳥羽天皇」と表現したりもしますけど)

 

 

後鳥羽上皇の天皇在位期間は平安時代末期から鎌倉時代初期(1183年~1198年)です。
後鳥羽は壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇の異母弟です。当時安徳天皇は平家と共に西国に逃れていたため都に天皇がおらず、祖父の後白河法皇が安徳天皇の次位としてわずか4歳の後鳥羽に天皇位を継がせました。なので、安徳天皇と在位が2年ほど重なっています。
太上天皇である後白河法皇の院宣を受けて践祚(天子の位を受け継ぐこと)し即位式も行われましたが、その儀式は三種の神器が揃わない状態で行われたので「神器なき即位」と言われています。当時平家が三種の神器を持って西国に逃れていたためです。

 

 

三種の神器とは「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」のことで、この三種の神器の所持をもって皇位の証明となります。壇ノ浦の戦いにより三種とも壇ノ浦に沈みましたが、八咫鏡と八尺瓊勾玉は源義経が回収しました。
(この時、実は本物の八咫鏡は源氏の手を逃れて隠されており、本物は赤間神宮に奉献されているという伝説については「赤間神宮」のページで紹介しています)

 

 

もう1つの神器である天叢雲剣の本物は、熱田神宮の奥深くに神体として安置されています。第10代崇神天皇時代に天叢雲剣(草薙剣)の形代が作られており、その形代が三種の神器の1つとして天皇とともにありました。壇ノ浦の戦いで沈んだ草薙剣は、後鳥羽が捜索を命じていますが結局発見されていません。(後鳥羽は以前に伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣としました)

 

 

と、なぜか三種の神器について報告してしまいました。
後鳥羽上皇と後鳥羽神社の関係や鳥羽院の地名について興味のある方は、このページの本文最後をお読みください。長文なので飛ばしてくださってもかまいません。管理人が趣味で書いただけです。

 

 

後鳥羽神社境内の写真は、道路沿いの入口から拝殿へ向かっていく順番で掲載します。
ちなみに管理人は鳥羽院公園(後鳥羽山陵)には行かなかったので、後鳥羽神社付近の画像だけを掲載しています。またいつか訪れた時には鳥羽院公園まで足を運んでみたいです。
静寂の中に佇む神社には趣があり、管理人は好きな神社です。

境内の狛犬の詳細は「狛犬サイト」で確認してください。

 

 

【計22枚掲載】
記:2015年05月24日
編集:2018年04月08日

 

 

 

後鳥羽神社の入口

後鳥羽神社の入口には「後鳥羽神社」と書かれたものすごく目立つ案内板と、後鳥羽法皇歌碑があり、歌碑の隣には文字が判別できない石碑がありました。

 

後鳥羽神社入口の写真
後鳥羽神社入口の石碑の写真

 

この卵みたいな石碑は、後鳥羽法皇歌碑の隣にありました。

文字も書いてありますが、薄くなってしまっていてほとんど読めません。

何となく「後鳥羽」という文字と「大正」という文字が見えるので、おそらく大正年間に建てられていた、後鳥羽神社の案内用の石碑なのだと思います。

新しい石碑(後鳥羽法皇歌碑)ができたので、そのまま放置されているのかもしれませんね。

 


後鳥羽法皇御製


かくばかり 身のあたたまる草の名を
いかにや人のひえと言うらむ

 

後鳥羽院塚七百五十年祭典
皇紀二千六百四十九年(1989年)二月二十二日

明治天皇外戚 中山愛英


 

 

 

後鳥羽神社へ向かう

鳥羽院公園の案内図

駐車場にあった案内図を撮影したので掲載しておきますね。

管理人はこのまま後鳥羽神社へ向かいましたが、どうやら逆側に後鳥羽山陵や展望デッキなどがあったようです。草スキーもできるだなんて、ちょっと楽しそうです。

 

鳥羽院ふるさと自然公園案内図の写真

 

 

後鳥羽神社へ向かう

山林の中を通って後鳥羽神社を目指します。

しばらく歩くと林の向こうに後鳥羽神社の鳥居と拝殿が見えてきます。

 

後鳥羽神社周辺の景色の写真
後鳥羽神社周辺の景色の写真
見えてきた後鳥羽神社の写真

 

 

 

後鳥羽神社の鳥居

後鳥羽神社の鳥居の写真

 

後鳥羽神社の鳥居です。神額には「後鳥羽神社」とあります。
建立年はわかりませんでした。

 

 

 

後鳥羽神社の境内の様子

後鳥羽神社の鳥居をくぐると狛犬がお出迎えをしてくれます。

左側に拝殿が、その奥に本殿があります。

拝殿前にも狛犬がいましたので、後鳥羽神社には2対の狛犬がいることになります。

 

後鳥羽神社境内の写真

 

 

 

後鳥羽神社狛犬

鳥居のそばの狛犬

後鳥羽神社の鳥居傍の狛犬です。

画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

 

平成13年(2001年)に奉納されていて、けっこう新しい狛犬です。

本殿に向かって右側の阿形は口の中に玉があります。かがんでいるような姿です。

左側の吽形は右足で玉を踏んでいます。
どちらの狛犬も、ちょっと魚っぽく思えてしまうのは背中の造形からでしょうか。

狛犬サイトへ

 

 

 

拝殿前の狛犬

後鳥羽神社拝殿前に配置されていた狛犬です。

画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

制作年代は不明です。
傷みもひどく、苔むした感じで造形もわかりにくいですが(そもそもスマホで撮影しているためブレているせいですが)管理人はこういう狛犬の雰囲気が好きです。

阿形は口に玉を咥えており、吽形は右足で玉を踏んでいます。

と思っていましたが、撮影した画像をよく見たら、吽形の方は玉ではなく子犬を踏んでいるようにも見えます。玉だった場合よりも高さがあるように見えるんですよね。まあ、痛みがひどくて何の造形なのかがわからないので、確かなことはわかりません。子犬を踏んでいるとしたら、吽形は「子取りの狛犬」ですね。

狛犬サイトへ

 

 

 

 

後鳥羽神社拝殿

後鳥羽神社拝殿の写真を掲載します。

カメラ機能がすこぶる悪いスマホで撮影したので、なぜか画像が緑がかっていたり茶色だったりしていますが、管理人にはどうすることもできません。ごめんなさい。

 

後鳥羽神社拝殿の写真
後鳥羽神社拝殿の写真
後鳥羽神社拝殿の写真
後鳥羽神社拝殿と本殿の写真

 

写真の左奥に見えているのが本殿だと思います。拝殿・幣殿・本殿と続いているのでしょうね。
何も考えずに撮影したため、拝殿ばかりを撮ってしまって本殿が写っている写真はコレしかありませんでした。やはり何を写したいのか目的を持って撮影するべきでした。反省。

 

 

拝殿左奥の滝「みそぎ」

後鳥羽神社の滝の写真

 

拝殿の左奥には滝がありました。
「みそぎ」と呼ばれていて、後鳥羽上皇が遊ばれた滝だそうです。

 

 

 

 

後鳥羽神社について(概要)

「後鳥羽神社」と「後鳥羽上皇」の関係について、少し考えてみたいと思います。

神社名が「後鳥羽神社」で祭神が「後鳥羽天皇(上皇)」ですから、両者とも関係がありそうだと容易に想像できますね。とは言え、後鳥羽神社が存在する地名は「鳥羽院(とばい)」です。「後鳥羽」ではなく「鳥羽」なんですよ。地名だけを考えたら「後鳥羽上皇」はあまり関係ないように思えませんか?むしろ「鳥羽上皇」に関係してそうじゃないですか。

それに、「鳥羽院」は佐賀県神埼市にあります。都から遠く離れた佐賀県ですよ?

なぜ九州の佐賀県、しかも県庁所在地でもない田舎の地に上皇の名前がついた神社があって、上皇に関係するような地名が付いているのか。興味が沸きませんか?

 

 

ということで、色々と調べたり考えたりして文章にしてみましたが、以下はあくまでも管理人の推測&妄想の結果です。中身を絶対的に信用なんてしないでください。ただのファンタジーです。

けっこうな長文になりましたので、興味の無い方はご覧になる必要はありません。飛ばしてください。

管理人の自己満足で文章を書いているだけですから、批評もいりません。いらないっ!!(笑)

 

 

あと、以下の文章の中で「承久の乱」(1221年)について触れる箇所がありますので、このくっそ長い文章を読む気がある方は、「承久の乱」を思い出しておいてください。

「後鳥羽上皇」と言えば「承久の乱」ですからね。

鎌倉時代の話ですよ。源氏三代が亡くなってしまって、さて、次の将軍はどうしよう‥‥みたいな時代の話です。政子の演説、とか思い出してきましたか?

ハイ、そういう時代のお話です。後鳥羽上皇は承久の乱で幕府方と対立し、負けてしまって隠岐に流されてしまった天皇(上皇)です。

 

 

 

鳥羽院下地区の稗粥地蔵伝説(神埼まちあるき)

さて、承久の乱後、後鳥羽上皇は隠岐島に流されて延応元年(1239年)2月に配所(隠岐島)で崩御しましたが、実は佐賀県神埼市脊振町鹿路に滞在し、この地で崩御されたという伝説があります。

「え、そんなことあり得ない!」と思われる方も多いと思います。

でも、伝説なんですから、史実と違っていても何ら問題はありません。

伝説になるためにはそれらしき言い伝えや証拠が残っているのが常なわけで、もちろん、佐賀県神埼市にもちゃんと言い伝えがあります。

 

 

佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院下地区は、古くは「絹巻の里」と呼ばれ、「隠岐島に流された後鳥羽上皇がひそかに当地に逃れ、稗粥をごちそうになった」という伝説があり、その伝説の名が付いた「稗粥地蔵」がこの地で祀られています。

 


伝説の内容について、神埼市のホームページ『神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」』の「神埼まちあるき(3)伝説が息づく鳥羽院」(以下、長いので「神埼まちあるき」と表記することにします)から引用しておきますね。

 

【稗粥地蔵伝説】(「神埼まちあるき」より)

昔、この山里に5、6人の供人を連れた都人らしい旅人の一行がたどり着いた。一行は一軒の小さな百姓家を見つけてその家を訪れた。中を覗くと薄暗い土間の隅で一人の老婆が炉を焚いており、美味しそうな匂いが漂っている。供人の一人が「われらは都から来た旅の者。はなはだ申し兼ねるが、食事の用意はできまいか」と言葉丁寧に頼んだ。老婆は都人らしい人々の口にあいそうな食事の用意などできそうにないので「あいにく都の人に差し上げるような食べ物の用意はできません。あるものは杣人(そまびと/キコリのこと)が食べる稗(ひえ)の粥ばかりでございます。」と申し上げたところ、「何ものにても結構。あれにおられるは都のさる高貴な方」と重ねて頼まれた。老婆はすぐに稗粥を温めて差上げたところ、一行は何杯もお代わりをした。この一行が隠岐島から密かにこの地を訪れた後鳥羽上皇の一行であったと伝えられており、稗粥で身を温められた上皇は、「かくばかり身のあたたまる草の名を いかでか人は稗というらむ」と謳われたのである。

 

「神埼まちあるき」の記述内容によると、鳥羽院下地区には後鳥羽上皇が行宮(あんぐう:かりみや)にしたと伝わる「善信寺(旧名:教信寺)」があり、そこには上皇の宸筆の書と伝えられるものや、元禄2年(1689年)に奉納された「鳥羽院王宮」の扁額が残されていました。しかし残念ながら、大正14年(1925年)の火災で失ってしまったそうです。

 

 

また、教信寺裏山には後鳥羽上皇の山陵と伝えられる墳墓があったそうです。
大正元年(1912年)12月20日、後鳥羽上皇の御陵墓の清掃の際に石棺が発見されており、内部には二片の人骨が残されていました。石棺の蓋石裏には「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれており、当時の宮内省へも報告され、大正6年(1917年)に現在の陵墓に埋葬されたそうです。

この「現在の陵墓」というのがどこなのか、管理人にはよくわかりません。

「神埼まちあるき」の記述だと京都の大原陵を指すのか、当地の後鳥羽院山陵(現:鳥羽院公園)を指すのか、どちらとも判断できかねます。もうちょっときちんと表記しておいてほしかった、というのが管理人の感想なんですが、まあ、どちらでも良いですね。(オイw)

 

 

「神埼まちあるき」によると、鳥羽院村は後鳥羽上皇の家来である西河太夫家房の采地(領地・知行地)だったため、後鳥羽上皇は遷宮の地として当地を選んだと伝えられているそうですよ。

 

 

 

とまあこんな感じで、後鳥羽上皇が佐賀県神埼市脊振町鳥羽院下地区を密かに訪れて、この地で崩御されたという伝説について、それなりに証拠が残っているわけです。

後鳥羽上皇の山陵もあるし、後鳥羽上皇の直筆の書も残っていた。後鳥羽上皇が訪れた際の様子も伝説として残っている。いわゆる証拠もあるわけで、「たかが伝説」とか「こっそり隠岐島を抜け出すなんてできるわけがない」なんて思いこみで切り捨てるのではなく、「伝説が残っているという事実」を素直に受け入れた方が、世の中色々と楽しいんじゃないかと管理人は思うわけです。

 

 

 

後鳥羽神社の由来(佐賀県神社誌要)

大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』という本があります。佐賀県内の神社の祭神や由来、当時の氏子戸数などがまとめられた本です。

この本の内容は国立国会図書館デジタルコレクションで確認することができ、「後鳥羽神社」についてもその由来が記載されていました。

 

 

 『佐賀県神社誌要』に記載されている後鳥羽神社の由来ですが、上記で紹介した「神埼まちあるき」に記載された内容と若干違う箇所があります。

詳しいことはわかりませんが、おそらく「神埼まちあるき」の文章は、『肥前国誌』(1972年)と『脊振村史』(1994年)をベースに記載したのだと思うんです。『佐賀県神社誌要』は大正15年(1926年)発行なので、「神埼まちあるき」で参考にされた2つの書よりも前に書かれたものになります。なので、両者で記述内容に差異があるのだと思います。

 

 

 

とりあえず、『佐賀県神社誌要』の「後鳥羽神社」由来部分の画像を掲載します。出典は「国立国会図書館デジタルコレクション」です。

画像をクリックすると拡大しますが、いわゆる旧字で記されているため、管理人が勝手に現代漢字、現代仮名遣いに直して補足説明を加えた文章を画像の下に掲載しておきます。

とは言え結果的には難しい言葉のままなので、管理人が適当に現代語訳した文章も掲載しておきますね。

 

佐賀県神社誌要の後鳥羽神社に関する記述部分の写真
後鳥羽神社(『佐賀県神社誌要』より)

 

村社 後鳥羽神社
神埼郡脊振町大字鹿路
祭神 後鳥羽天皇 七郎明神

仲恭天皇の御宇、承久の敗によりて、北条義時後鳥羽法皇を隠岐国に遷し奉りて、悲惨の御生涯に月日を送らせられける折、潜かに随臣西川左衛門大輔源家房に九州へ潜幸の旨勅令ありし故、家房即ち御諭に従い遂に肥前国神埼郡絹巻里に供奉したり。
此山奥の人々は常に稗を以て常食としければ、里民取り敢えず稗の粥を奉る。其時の御製に
   かくはかり身のあたたまる草の名を
     いかにや人のひえといふらん
との御製の宸筆を賜りしに、後火災にかかり焼失して、今は其焼余の宸筆を存ぜり。
かくて御不豫の事ありて延応元年二月二十二日宝算六十にて崩御ありければ、後方の山に葬り奉る。
今小山田の中に一畝歩(30歩)高き所あり、後鳥羽院山陵と唱ふ。且御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る。而して神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり。御神体は長さ八寸後落飾前の御姿を彫刻せるものにて、御烏帽子直衣(のうし:天皇の平常服)の御姿を彫刻せる御像なり。然るに随臣西川左衛門大輔源家房の計いにて此處に御住み給いしを秘し隠岐国にて崩御ありしと世上に披露し奉りしとぞ、されば此時よりして絹巻里を後鳥羽院村と称(とな)えたりしが、余り長ければ鳥羽院村と改めたる由申伝ふ。天さかる鄙(あまさかるひな:都から遠い鄙(ひな)。鄙は都の外の地。万葉集に出てくる枕詞)の習いにて恐れ多き事とも知らず、文字の差別あるをも弁(わきま)えず、天子の貴き御諡号(しごう。おくりな。天皇が崩御後に贈られる名前)を以て賤しき土民の居所の名に用いしこと、今更憚りありと雖も(いえども)数百年来称し来れる村の名なれば私には改め難き事なり。明治六年二月二十日村社に列せらる。無格社合祀により祭神七郎明神を追加せり。
  大正十三年五月十三日神饌幣帛料供進指定
  氏子戸数 百十四戸

 

 

とりあえず注釈を付けて書き起こしてみました。

これでは何の話をしているのか難しいので、下記では管理人が勝手に現代語訳をしてみました。

解釈が合っているのかどうなのかは知りません。ニュアンスでご理解ください。

以下、現代語訳したものです。

 

 

村社 後鳥羽神社
神埼郡脊振町大字鹿路
祭神 後鳥羽天皇 七郎明神

仲恭天皇の治世、承久の乱の敗戦により、北条義時が後鳥羽上皇を隠岐国に流罪とし、上皇が悲惨の御生涯に月日を送られていた頃、上皇はひそかに、随臣である西川左衛門大輔源家房に九州へ潜幸するように命じられた(勅令があった)ため、家房は上皇に従って肥前国神埼郡絹巻里に供奉した。
絹巻里の人々は稗(ひえ)を常食としていたので、里民はとりあえず上皇に稗の粥をお出しした。その時上皇は「かくはかり身のあたたまる草の名を いかにや人のひえといふらん」と詠まれて宸筆(直筆の書)を与えられたが、後の火災によって焼失して、今は其焼余の宸筆を存ぜり(今は焼け残ったものがある)。


上皇は体調を崩されて延応元年(1239年)2月22日、60歳にて崩御されたので、後方の山に埋葬した。
今小山田の中に一畝歩(30歩)高い場所があり、それを「後鳥羽院山陵」と呼ぶ。且御遺勅によりて(上皇の遺言により)、延応元年3月に御祠を立てて「後鳥羽神社」と称し奉る。神殿の下に埋め奉った石槨の蓋に「御白骨二枚」と彫刻があると伝えられている。御神体は長さ八寸後落飾前の御姿(仏門に入る前の姿)を彫刻したもので、御烏帽子直衣の御姿を彫刻した像である。随臣の西川左衛門大輔源家房の計らいでここに住んでいたことを隠し、隠岐国で崩御されたと世間に披露したと言われている。

この時より絹巻里を「後鳥羽院村」と呼んでいたが、あまり長いので「鳥羽院村」と改めたと伝えられている。天さかる鄙(あまさかるひな:都から遠い鄙(ひな)。鄙は都の外の地。万葉集に出てくる枕詞)だからと言って恐れ多いことだとも知らず、文字の差別(使ってよい文字と使ってはいけない文字があるということ)もわきまえず、天子の貴き御諡号(しごう。おくりな。天皇が崩御後に贈られる名前)を卑しい土民の住む場所の名前に使ったことは、今更ながら問題があるといっても数百年前から使っている村の名前なので、勝手に名前を変更するわけにもいかない。

明治6年(1873年)2月20日に村社に列せらる。無格社合祀により祭神七郎明神を追加した。
  大正十三年五月十三日神饌幣帛料供進指定
  氏子戸数 百十四戸

 

 

『佐賀県神社誌要』の「後鳥羽神社」の由来部分を現代語訳してみました。途中で飽きたので(笑)昔の言葉と今の言葉が混在していますが、まあ、内容はわかると思います。

「神埼まちあるき」で記述されている内容と同じように、後鳥羽上皇がひっそりと脊振町鳥羽院に住んでいた、という話です。そのまま当地で崩御されたので埋葬し、遺言により祠を立てて「後鳥羽神社」と称したという内容になっています。

 

 

「神埼まちあるき」と『佐賀県神社誌要』の大まかな内容は似ていますが、細かい部分では異なる箇所がありますので、以下、もう少し詳しく見てみたいと思います。

 

 

 

後鳥羽上皇の宸筆について

まずは後鳥羽上皇の「宸筆(直筆の書)」について詳しく見てみます。

「神埼まちあるき」も『佐賀県神社誌要』も、「宸筆」は火災により焼失したと言っています。

 


「神埼まちあるき」には、後鳥羽が行宮とした教信寺にあった宸筆が、大正14年(1925年)の火災で焼失してしまったと記載されています。

『佐賀県神社誌要』には「御製の宸筆を賜りしに、後火災にかかり焼失して、今は其焼余の宸筆を存ぜり」とあります。「今は其焼余の宸筆を存ぜり」というのは「焼余」「存ぜり」ですから、「存ぜり」つまり「存じている」、要するに「残っている」という意味だと思います。よって、『佐賀県神社誌要』の記述を素直に読むと、後鳥羽の宸筆は火災に遭ったけれどもちょこっとだけ焼け残ったのだと思われます。

 

 

というか、『佐賀県神社誌要』は大正14年の教信寺の火災を知らないのではないかと思います。だって残ってますからね。宸筆があった教信寺は「焼失した」と言っているわけで、焼け残ったとは言ってないわけです。

『佐賀県神社誌要』の発行年は大正15年(1926年)です。筆者が後鳥羽神社について記述したのは発行年かその前年ぐらいなのではないでしょうか。なので、筆者は大正14年の火災について知らなかった可能性があります。

ということは、もしかしたら、上皇の宸筆は2回の火事に遭っているのかもしれないわけです。一度火災で焼失したけどちょこっと残っていたものが、大正14年の教信寺の火災で全部焼失してしまった、ということなのかもしれませんね。

 

 

 

後鳥羽神社と御神体について

後鳥羽神社の場所と石棺の文字

後鳥羽上皇のお墓、つまり山陵は、後鳥羽上皇が行宮とした善信寺(旧名:教信寺)の裏山にあります。墳墓のことを住民の方は「塚」と呼んでいるそうです。現在は「鳥羽院公園」として整備され、「神埼まちあるき」には、この「塚」の写真が掲載されています。一般的には「御陵」と呼んでいるようですね。

(管理人は鳥羽院公園を訪れなかったのでよくわかりませんが、「神埼まちあるき」ではこのように説明されています)

 


「神埼まちあるき」によると、大正元年(1912年)12月20日、御陵墓の清掃の際に石棺が発見されています。石棺内部には二片の人骨が残され、石棺の蓋石裏には 「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれていたそうです。

ちょっとどうでもいいことなんですが、「神埼まちあるき」さんはこういう史料的な意味でホームページに表記するならば、「2枚」などと書かずに「二枚」と、文面通りに表記すべきだと管理人は思います。どう考えても当時「2」などという算用数字はありませんので、石棺に書かれていた文字は「白骨二枚西河左衛門太夫奉拝」だったのだと思われます。(本当にどうでもいいことだった‥‥)

 

『佐賀県神社誌要』では「而して神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり」と簡単に記述されているので、「神埼まちあるき」の方が表記が詳しいですね。『佐賀県神社誌要』が言う石槨の話は、「神埼まちあるき」に記載されている大正元年の清掃の際に発見された石棺のことを言っていると考えて間違いないと思います。

 

 

 

『佐賀県神社誌要』には後鳥羽上皇の山陵と後鳥羽神社について、「崩御ありければ、後方の山に葬り奉る。今小山田の中に一畝歩高き所あり、後鳥羽院山陵と唱ふ。御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る。而して神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり」と記述されています。


『佐賀県神社誌要』の記述をそのまま素直に読むと、後鳥羽上皇崩御後、「後方の山に葬り奉る」とあるので、行宮があった教信寺の後ろの山に埋葬したわけです。この埋葬地を「後鳥羽院山陵」と呼ぶ、と。

その後、「延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」とあるので、山陵前に祠を立てて後鳥羽神社と称したわけですね。現在の後鳥羽神社は、善信寺(旧名:教信寺)より奥にあり、後鳥羽神社の裏は山なので、この『佐賀県神社誌要』の記述は正しいと思われます。「神埼まちあるき」の記述とも合致しますし。

 

 

ただ、「神埼まちあるき」で書いてある大正元年の御陵墓の清掃ですが、石棺が発見されたのは御陵墓つまり御陵、山陵なわけですよ。でも『佐賀県神社誌要』では「神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に」とあります。「神殿の下」って、普通は神社の神殿を言うのではないかな?とか思うんですけどね。素直に読んだら、後鳥羽神社の神殿の下に石棺があった、ということになっちゃいますよね。

でもまあ「山陵も含めて神域」ということであれば、「神殿の下」という言葉も「山陵」を指すと考えて良いのだと思います。

 

 

 

御神体

後鳥羽神社の御神体についてですが、「神埼まちあるき」には記述がありません。

『佐賀県神社誌要』には「御神体は長さ八寸後落飾前の御姿を彫刻せるものにて、御烏帽子直衣の御姿を彫刻せる御像なり」とあります。

つまり、後鳥羽神社の御神体は後鳥羽上皇の落飾前(仏門に入る前)の姿を彫刻した像、つまり烏帽子直衣姿の彫刻をした長さ八寸(約24cm)の像、ということです。

 


あ、もしかしたら『佐賀県神社誌要』の「御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり」という文章は、「御白骨二枚と彫刻した」のではなくて、「御白骨二枚と彫刻の2つがある」という意味なのかな?

まあ、どうでもいいや。(←投げやりになってきたw)
要するに、後鳥羽神社の御神体は後鳥羽上皇の彫像だということです。
この彫像は現在の後鳥羽神社でも御神体となっているのでしょうか。調べる術がないのでわかりません。

 

 

 

西川家房とは

「神埼まちあるき」の記述によると、石棺には「白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれていたわけですが、この「西河左衛門太夫」とは、誰のことなのか。

『佐賀県神社誌要』には「随臣西川左衛門大輔源家房に九州へ潜幸の旨勅令ありし故」と記述されています。「西河」つまり「西川」ということで、「白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」の「西河左衛門太夫」とは「西川家房」という名前の人物のことだと思われます。

 

 

では「西川家房」とはいったい何者なのでしょうか。

「神埼まちあるき」の記述を引用しておきます。

 

県道沿いに「善信寺」の看板が建っています。参道の石門を通り石段を登りきった高台に善信寺があります。この善信寺は、当地に訪れた後鳥羽上皇が行宮としたと伝えられています。 

「鳥羽院村は脊振村に属す。住吉、西河太夫家房の采地なり。御鳥羽帝蒙塵して隠岐国に在らせられ、海潮の響きに悩み給い、家房を召し、遷宮を謀り給う。家房は、法印純茂と謀り、皇輿を奉じて、隠岐を出で、行宮をここに建つ。」とある。(『肥前国誌』脊振村史より)

 

「神埼まちあるき」自体も『肥前国誌』背振村史を引用していますが、記述内容より「西河太夫家房」は、後鳥羽上皇の家来だということがわかります。鳥羽院村は西河家房の知行地だったので、隠岐から後鳥羽上皇と一緒に家房の知行地へ遷ったわけですね。

『佐賀県神社誌要』には「随臣西川左衛門大輔源家房」とあります。「随臣」とは「お付きの人」ぐらいの意味でしょうが、ネットで検索してみると、後鳥羽上皇の「陪臣」と書かれているサイトもありました。「陪臣」とは直接の家臣ではなく、家臣の家臣、という関係の家来のことです。西川家房は隠岐の国人と書いてあるサイトもありました。‥‥よくわかりませんね。

 

 

 

「西川家房」で検索をすると、『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』というサイトの「屋形所」ページが見つかりましたので引用しておきます。

引用箇所のうち「延応元年(1339)」と表記されている箇所は、正しくは「延応元年(1239)」です。西暦年を間違って記述しているようですね。まあ、どうでもいいんですけども。

 

「鳥羽院山教信寺由来記」によると、後鳥羽上皇が隠岐に流されるとき、苅田郷の領主西川家房が自分の領地である神埼郡絹巻里に上皇を移し、上皇はその地で延応元年(1339)に崩御されたという。それでこの地を鳥羽院と称した。

 

「さがの歴史・文化お宝帳」の記述では、西川家房は「苅田郷の領主」だったようですね。「苅田郷」がどこなのか、管理人にはわかりません。ごめんなさい。でもまあ、西川家房は「絹巻里」に領地を持っていたことは間違いないようです。「絹巻里」というのは現在の鳥羽院下地区のことですね。

 

 

ネットで検索してみると、鳥羽院付近は代々西川家が支配していたようで、教信寺の住職は代々西川家が務めていたそうです。戦国時代の鳥羽院城主は西川氏であり、龍造寺隆信時代、神代氏に従属していた人物の中に鳥羽院城主西川伊豫守がいます。のち殺されてしまうこの西川伊豫守の先祖が西川家房なのでしょう。

 


『佐賀県神社誌要』では「随臣西川左衛門大輔源家房」と記述されていますので、「源家房」でネット検索してみましたが、出てきません。

後述していますが、『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「布巻観音」のページでは「西川左衛門太輔源安房」と記述されていたので、「安房」でも検索してみましたが、やっぱり出てきません。

もはや名前もハッキリとしない人物です。

謎の人物ですね。

 

 

 

鳥羽院という地名になった理由

後鳥羽神社がある地域は、以前は「絹巻の里」と呼ばれていました。現在は「鳥羽院(とばい)地区」と名前が変わっています。

なぜ「鳥羽院」という地名になったのか。

この疑問に対する答えは『佐賀県神社誌要』に書いてあります。

「絹巻里を後鳥羽院村と称(とな)えたりしが、余り長ければ鳥羽院村と改めたる由申伝ふ」と。
つまり、絹巻里(元の地名)を後鳥羽上皇が遷宮されたことで「後鳥羽院村」と称したけれども、名前が長いので「鳥羽院村」に改めちゃったよ、と書いてあるんですが、改め方がヒドイ。「後」を取っちゃっただけかよ!とか思ってしまいますね。


この地名の変更に関しては『佐賀県神社誌要』でも手ひどく怒っていて、「天さかる鄙の習いにて恐れ多き事とも知らず、文字の差別あるをも弁えず、天子の貴き御諡号を以て賤しき土民の居所の名に用いしこと、今更憚りありと雖も数百年来称し来れる村の名なれば私には改め難き事なり。」と嘆いています。
大雑把に意訳すると、「こんな都から遠く離れた地だからと言って恐れ多いことも知らず、使っていい文字とそうじゃない文字があるということさえわきまえず、天子の貴い名前を賤しき土民(土民!w)の地名に用いるなど何ということだ!!とは言っても、もう数百年前から使ってきた村の名前だから、今更勝手に変更できないし‥‥ああっもう!(`・ω・´)」って書いている(笑)

 


確かに数百年も使用されてきた地名なわけです。後鳥羽上皇が1239年に崩御したあと、現在まで「鳥羽院」という地名が使われてきたのは、当地の人々が後鳥羽上皇の伝説を大切にしているからこそ、なわけですよね。管理人は鳥羽院という地名は素敵だと思いますし、誇りを持てる良い地名だと思います。

そんなに怒らなくてもいいと思います、ええ。

 

 

 

鳥羽院という地名になった理由(別説)

さて、ここまで長々と「後鳥羽神社」の由来みたいなものを書いてきました。

後鳥羽上皇が隠岐から脱出し、ひっそりと当地に遷宮され、この地で崩御された。

だからこそ当地には後鳥羽上皇の山陵が存在しているし、数々の伝説が残っている。

後鳥羽上皇を祭神とする「後鳥羽神社」も創建され、地域の人々が大切に守り続けているという事実がある。

では、後鳥羽上皇が滞在されたから「絹巻の里」という地名を「鳥羽院」という地名に変更したという『佐賀県神社誌要』の記述は信用できるのでしょうか?

 

 

以下、「鳥羽院」という地名になった理由について管理人の考えを書いてみます。

管理人の考えというか、管理人が採用する説を紹介する、という感じですかね。(説を紹介する前に、どうでもいいことを長々と書いてしまいましたけどもw)

 

 

『佐賀県神社誌要』が言う「後鳥羽上皇が滞在したから鳥羽院村という地名になった」という説について、管理人は違うのではないかと思っています。

「後鳥羽」と「鳥羽」は、明確に異なるからです。別人格なんですよ完全に。

それを混在させて「後鳥羽院村だと名前が長いから鳥羽院村にした」なんて理由、大雑把にもほどがあるのではないでしょうか。(あくまでも管理人個人の感想です。怒らないでください)

とはいえ以下は管理人のファンタジー小説みたいなものですから、まともに受け取らないでくださいね。

ファンタジーですよ、ファンタジー。超長い文章になったので、もう読まなくてもいいです(笑)

 

 

 

「後鳥羽」という名前と『佐賀県神社誌要』のあいまいな記述について

「鳥羽院(とばい)」という地名になった理由は「後鳥羽上皇がこの地に滞在したから」だと『佐賀県神社誌要』は記述しています。

でも、後鳥羽上皇が絹巻里に遷宮し滞在していた当時、上皇は「後鳥羽」という名前を持っていませんでした。現在私たちが呼んでいる天皇の名前は、天皇や上皇が生きていた当時の名前ではないのです。

 

 

もちろん天皇にも名前はあります。後鳥羽上皇の場合、本名は「尊成」です。

でも、本名は口に出してはいけないものだし(だからこそ「諱(いみな)」「忌む名」というのです)天皇の本名を呼ぶなど言語道断。現在でも天皇陛下のことは「天皇陛下」「今上天皇」としか呼びませんからね。

高貴な方の名前なんて、一般人は知らなかったはずなのです。
今私たちが「後鳥羽上皇」と呼んでいるのは、崩御後に朝廷から贈られた名前「諡号(おくり名)」を呼んでいるのです。
そして非常に重要なことなんですが、後鳥羽上皇が最初に贈られた諡号は「後鳥羽」ではありませんでした。「顕徳院」だったのです。


『佐賀県神社誌要』には「今小山田の中に一畝歩高き所あり、後鳥羽院山陵と唱ふ。且御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る。」と記述されています。

後鳥羽上皇が延応元年2月に崩御した後、行宮後方の山に埋葬して後鳥羽院山陵と呼び、延応元年3月に祠を立てて後鳥羽神社と称した、という記述です。

でも、延応元年(1239年)当時、「後鳥羽」と呼ばれた天皇・上皇はいません。「後鳥羽」という名前は存在していなかったのです。それなのになぜ、崩御した翌月に「後鳥羽神社」と称することができたのでしょうか。延応元年に神社が建立されたならば、神社名は「顕徳神社」でなければ辻褄が合いません。


もちろん、「のちに後鳥羽神社と称するようになった」という意味で『佐賀県神社誌要』が「後鳥羽神社と称し奉る」と記述している可能性があります。

そうであるならば、『佐賀県神社誌要』は「のちに」と書いておかなければいけません。「のちに」という言葉があるのと無いのでは、全く違う事実になってしまいます。

 

 

しかも、『佐賀県神社誌要』には「御遺勅によりて」とあります。

勅を出せるのは天皇や上皇だけです。そして「遺勅」とあるのですから勅を出したのは既に亡くなった人物、つまりここでは後鳥羽上皇以外いません。つまり、『佐賀県神社誌要』は「後鳥羽神社」と称したのは上皇本人の遺言だと断じていることになります。

なぜ、使われていない名前を上皇は遺言できたのでしょうか。これでは辻褄が合いません。


ちなみに、『佐賀県神社誌要』の「且御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」という記述ですが、後鳥羽の「御遺勅」について2つの読み方ができます。

1つは「自分が死んだら祠を立てて後鳥羽神社という神社名にしろ」というピンポイントな遺言です。

もう1つは「自分が死んだら祠を立てて神社にして祀ってくれ」というふんわりとした遺言です。

どちらも考えられる「御遺勅」だと思われます。

 

 

上記では、管理人は1つ目の「後鳥羽神社という神社名にしろ」という遺言について書きました。

当時「後鳥羽」という人物は存在していないため、「後鳥羽神社という神社名」になるはずが無いのですから辻褄が合わない、ということです。

 

 

ではもう1つの「自分を祀ってくれ」という遺言だった場合はどうでしょうか。

この場合、『佐賀県神社誌要』は「自分を祀ってくれという遺言があったから神社を創建した。のちにその神社は後鳥羽神社と称するようになった」というような記述内容でなければいけないと思います。

というかそもそも、「自分を祀ってくれ」と遺言して崩御するなんてこと、当時の天皇や上皇、特に後鳥羽上皇の場合は考えられない言動だと管理人は思うのです。

 

 

 

ということで以下、管理人の妄想を述べます。

ただの屁理屈、あくまでも管理人の推測ですので、何か気になる点があったとしてもスルーしてください。たかが妄想文章です。

 

 

 

後鳥羽は「自分を祀ってくれ」とは言わないだろう

実在の人物が神として祀られる場合(人神)、その人物の遺徳を偲んで祀られる場合と、憤死した人物が怨霊化することを防ぐために祀る場合の2つの理由が考えられます。特にこの時代は怨霊化を防ぐ意味で不幸な亡くなり方をした人物を祀ることが多い時代です。

 


後鳥羽上皇は上皇でありながら隠岐島に流され、許されることなく崩御していますから、都の人々や鎌倉幕府の人々からは怨霊化してもおかしくないと思われていたことでしょう。

でも後鳥羽上皇本人は、「自分を祀れ」とは遺言しないと管理人は思います。

「自分を祀れ」とはすなわち「自分を祀らなければ災いを起こすぞ」という意味になるからです。裏を返せば「自分を祀ってくれたら祟らないよ」と言っているのと同義です。


後鳥羽には「恨んでやるぞ」という想いがあったとしても「自分を祀らなければ祟るぞ」との考えには行かないと管理人は思います。
上皇は血の気の多い人物だったようです。天皇位にありながら武芸に関心があり、自ら刀剣を鍛え、盗賊を退治したこともあります。後鳥羽が自ら鍛えた刀剣に菊の紋を好んで入れていたことが、現在の天皇家の菊花の御紋章の由来となっているように、非常に行動的で大胆な人物です。源実朝が亡くなったのを好機として幕府に反旗を翻した(承久の乱)のは後鳥羽上皇だったからこそ、です。他の天皇や上皇にはこのような気概はないでしょう。

 

 

そういう後鳥羽が流刑地で崩御する。自分を不遇の目に遭わせた朝廷や鎌倉幕府に対して何の想いもないとは思えません。

自分は現人神なのです。権威そのものであり、正当な権力者なのです。

天皇であることの意味を現在の象徴天皇と同じだと考えないでくださいね。当時の天皇はまさしく現人神です。それなのに、現人神である後鳥羽は流刑地で憤死しているのです。二度と都には戻れなかった。だからこそ「自分を祀らなければ祟る」などの条件を出す必要などありません。「自分を祀ってくれたら祟らない」と思うはずがないのです。「何があっても祟る」からこそ、鎮魂や怨霊化を防ぐ意味で、不幸な亡くなり方をした人物は神社に祀られるのです。

 


ちょっとややこしいのでわかりにくいかもしれませんが、ニュアンスを理解してくださいね。

大げさに言うと「自分を祀れ」という遺言はあり得ないのだ、ということです。

歴代の天皇や親王などで怨霊化を恐れて祀られた人物で「自分を祀れ」と宣言した人物はいません。「祟ってやる」と声高に宣言した人物はいますが「自分を祀れ」「自分を祀ってくれたら祟らない」とは言っていないのです。

 

 

後鳥羽は配流後の嘉禎3年(1237年。崩御する2年前)に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記したと言われています。(Wikipediaより)

この置文の内容にもあるように、「自分の子孫が世を取ることあれば」自分の菩提を弔えと言っているわけです。「弔え」つまり「鎮魂しろ」と言っている。

 

 

「自分を祀れ」「祀ってくれたら祟らない」「自分を祀らなければ祟るぞ」なんて感情、崩御する2年前の時点で後鳥羽にはありません。というかもう、怨霊になってしまう気満々じゃないですか。「万一にも」なんて言ってますが、災いをもたらしてやると宣言しているようなものです。

 

 

「自分の子孫が世を取ることができたら、それは全て自分の力によるものだ。もしも自分の子孫が皇位を継ぐことができたら、(魔物になってしまった)自分の菩提を弔え(鎮魂しろ)」という宣言は、この置文を記した当時、後鳥羽の子孫が皇位を継ぐ可能性がほとんど無かったことと合致します。皇統が既に別系統に移ってしまっていたからこその「万一にも魔物になってしまったらこの世に災いをふりまいてしまうかもね」という脅し文句なわけです。

「自分を魔物にしたくなかったら、自分の子孫を皇位に就かせろ」という脅迫文というか、むしろ「自分の力(魔物の力)で自分の子孫に皇位を継がせるようにしてやる」という宣言なんですよね、コレ。魔物、つまり怨霊になる気満々です。(結果的には別系統の皇統が途絶え、後鳥羽の孫に皇位が戻ります)

 

 

こんなことを言ってしまうようなファンキーな後鳥羽上皇。

『佐賀県神社誌要』の「且御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」という記述を、「自分を祀ってくれという遺言があったから延応元年三月に祠を立てて神社を創建した。のちにその神社は後鳥羽神社と称するようになった」という意味に解釈できるような、そんな性格だったのでしょうか。ちょっと無理があるんじゃないかな?と管理人は思いますね。

そもそも、ファンキーな性格だからこそ、配流先の隠岐島を抜け出して佐賀県までやってきたのです。このまま配流先で人生を終わるのが嫌だから、西川家房の知行地である「絹巻里」までやってきたんですよ。

そんなアクティブ上皇が「自分が死んだら祀ってね」なんて遺言、するのでしょうか。魔物になる気満々なのに。

 

 

 

祠を立てて後鳥羽神社を創建したのは誰なのか

以上、流刑地で憤死した後鳥羽上皇が「自分が死んだら祀ってくれ」と遺言する可能性はほとんどないのだ、ということを書きました。ファンキー後鳥羽はそんな風には考えないと思われます。

 

 

では「自分が死んだら祀ってくれ」という遺言が、ただ「死んだら自分を祀ってね」「自分が死んだらお墓を立ててね」ぐらいの「願い」だった場合はどうでしょうか。

明確な遺言ではなく、お願いレベルの遺言だった場合です。

「お墓を作ってくれ」との遺言だったのでその通りにして、山陵の前に祠を立てて後鳥羽神社と称した、という流れです。

 


この場合の遺言は、実際に天皇や上皇が崩御すると陵が造られるわけですから必ず叶う願いになります。でもあくまでも「墓を作れ」レベルの遺言であり、誰も「神社にして祀れ」とは言っていません。

何が言いたいのかというと、後鳥羽上皇が後鳥羽神社に祀られた理由ですが、それは上皇本人ではなくあくまでも別人の意思によるものだ、ということです。

 


後鳥羽上皇に関しては怨霊化する可能性があったため鎮魂の意味も込めて祀られたと考えるのが筋が通ります。なので「御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」という『佐賀県神社誌要』の記述は少しおかしいと思うのです。
後鳥羽上皇の明確な遺言(御遺勅)で神社を建立した(祠を立てた)という説は容易に信じらません。

上記で散々書いてきたように、ファンキー後鳥羽は「自分を祀ってね」なんて遺言を残すとは思えません。怨霊化する気満々なんですから。

 

 

「後鳥羽神社」を創建したのは上皇の遺言ではなく上皇の周りの人々、つまりこの地の人々の意思だと管理人は思います。

 

 

 

佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院は後鳥羽上皇が滞在する前から「鳥羽院」という地名だった

鳥羽院(とばい)は「後鳥羽とは呼ばれていなかった上皇」が滞在した土地です。

確かに上皇が崩御した年に建立された神社があるし「後鳥羽神社」と神社名が付けられたけれども、それは明らかに後年のことです。上皇本人の意思で神社が創建されたのではなく、周りの人々の意思で神社が創建されたと考えられる上に、後鳥羽上皇が滞在していた当時、「後鳥羽」という名前は存在していません。どこから「後鳥羽」という名前が出てきたのでしょうか。上皇崩御後に上皇の名前を使って村の名前にしたのなら、その名前は、最初に贈られた諡号「顕徳院」を使った名前だったはずです。

 

 

『佐賀県神社誌要』には「されば此時よりして絹巻里を後鳥羽院村と称(とな)えたりしが、余り長ければ鳥羽院村と改めたる由申伝ふ。」と記述されています。後鳥羽上皇が滞在し、この地で崩御されたので「絹巻の里」を「後鳥羽院村」と呼ぶようになった。でもあまりにも長い名前なので「鳥羽院村」と改めた、というこの理由、本当にそうなのでしょうか。

 

 

 

このページ冒頭の説明部分にも書いていますが「鳥羽院」が実在するんですよね。後鳥羽上皇のひいおじいさんです。普通は「鳥羽院」といえば第74代鳥羽天皇を指すはずなのです。(明治以降、院号は廃止されたので諡号は鳥羽天皇となります。後鳥羽も同じく追号された当時は「後鳥羽院」でした)

 


管理人はどうしてもこの点に引っ掛かるのです。「鳥羽院」という地名は後鳥羽上皇ではなく鳥羽上皇に関係するのではないか?と思えて仕方がないのです。

だって「後鳥羽院村」という村名にしたけど長いから「鳥羽院村」にした、とかちょっと無理があるでしょう?一文字「後」を取っただけですよ。

読み方を「ごとばいんむら」から「とばいむら」にしたと言うけれども、やはり長いから省略するというには無理があるような気がします。「ご」と「ん」を抜いただけだし。

 

 

 

「何かしっくりこないな」と思いながら管理人が色々とネットで検索していた時に、面白いことを書いてあるページを見つけましたので紹介します。
『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』というサイトの「布巻観音」のページです。
佐賀市高木瀬の長瀬天満宮にある布巻観音の由来を書いてあるページですが、この布巻観音が神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる絹巻観音伝説と関わりがある、ということで鳥羽院について触れてありました。以下、該当部分を引用します。

 

(略)神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。(略)
昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、 鳥羽上皇のために菩提を弔った。
これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。(略)
季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。


答えがわかったような気がしませんか?
というか、この説ならば管理人的にはちょっとスッキリしますね。

この地は元から「鳥羽院」と呼ばれていた地域だった、ということですよ。

 


後鳥羽上皇の曽祖父である鳥羽上皇の家臣、北面の武士藤原季慶が従兄の西行法師と諸国を行脚しているうちに当地に落ち着き、鳥羽上皇の菩提を弔った。これが教信寺であり、山号も鳥羽院山と称し地名も「鳥羽院」となった。

その後、この地に後鳥羽上皇が遷宮されたことで伝説が根付いたのだ、と考えると納得できます。

(こちらでは「西川左衛門大輔源家房」が「西川左衛門太輔源安房」表記になってますが、検索しても出てこないので無視します)



ちなみにこの引用部分に出てくる「藤原季慶」ですが、これまた謎の人物で正直困ります。
上記と同じく『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』の「末次の起源」ページにも藤原季慶が登場するので確認してみましょう。

 

近衛天皇(第76代)の久寿元年(1154)鎮西八郎爲朝が九州で猛威をふるっているとの知らせにより、鎮西の監視役に5名が派遣されてきた。その内の一人である藤原秀郷の孫季清左衛門尉は佐賀に来て龍造寺村に館を構えた。(一説には藤原季清は、仁平元年(1151)杵島郡黒髪山の大蛇退治で名高い、源爲朝に従って肥前に下向し、のちに小津郷龍造寺村に住んだとある。)
季清の第5子季慶(季喜)は父の職を継いで佐賀において、小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る。季慶には子が無かったので、高木(高木瀬の内)の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした。 文治2年(1186)9月27日源頼朝より龍造寺村の地頭職に任ぜられ、京都護衛の任を兼掌したが、この時季家は龍造寺とその氏を改めた。


「布巻観音」ページには第74代鳥羽天皇が出てきます。上記の「末次の起源」ページには第76代近衛天皇が出てきます。どちらにも藤原季慶が登場しますが、少し時代がズレています。

「布巻観音」のお話では、藤原季慶は北面の武士でした。「末次の起源」のお話では、藤原季慶は父の職を継いでいるので、鎮西の監視役です。

同じサイトなのに、なんでちょいちょい中身が違うのでしょうか?

 

 

なんてことを気にし始めると収拾がつかなくなりますので、もう終わります。
とりあえず管理人は、「鳥羽院」という地名になった理由は、「この地は元から鳥羽院と呼ばれていた」説を支持することを宣言しておきますね。

長文&意味不明な文章で申し訳ありませんでした。