後鳥羽神社【神社】

後鳥羽神社写真

 

所在地:佐賀県神埼市背振町鹿路鳥羽院下
撮影日:2014年07月21日
掲載写真:21枚
主祭神:第八十二代後鳥羽天皇


佐賀県神埼市背振町鹿路(ろくろ)に「鳥羽院(とばい)」という地名の地があります。
この地には第82代後鳥羽天皇が訪れたという伝説がありますが、管理人は全く知りませんでした。「後鳥羽天皇が隠岐に流された後にやって来て、そこで亡くなったらしいよ。だってお墓もあるし神社もあるもん。」と知人に聞いたので、行ってみることにしました。
佐賀県に後鳥羽神社ですよ?ちょっと興味がわいてきませんか?


「鳥羽院(とばい)」という地名については後鳥羽天皇伝説が由来となっているようですが、なぜここは「鳥羽院」という地名なのでしょうかね?縁があるのは「後鳥羽」なのに「後」の字はどこに行ってしまったのでしょうか。後鳥羽の「後」を抜いたらそれって第74代鳥羽天皇を指してしまうんじゃないの?鳥羽天皇は後鳥羽天皇の曽祖父でしょ。鳥羽天皇も院政を敷いているのだから「鳥羽院」なわけで、地名の「鳥羽院」はそのまま字面だけ見たら完全に鳥羽天皇のことになっちゃうじゃないの。この地に身を寄せたのは後鳥羽天皇なんでしょ?なんかヘンだよね。
なんてわけのわからないことを思いつつ、後鳥羽神社に行きました。


木々に囲まれ静かな場所で、誰もいなくて、むしろ怖いぐらいでした。
でも管理人はこういう神社が大好きなのです!


ということで、少しだけ後鳥羽天皇について説明をしてから境内の画像を掲載し、その後に改めて後鳥羽神社について調べたことを書きたいと思います。後鳥羽天皇に関しては譲位して院政を敷いているため、ここでは「後鳥羽上皇」という呼び方で統一しておきます。



後鳥羽上皇の天皇在位期間は平安時代末期から鎌倉時代初期(1183年~1198年)です。後鳥羽は壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇の異母弟です。当時安徳天皇は平家と共に西国に逃れていたため都に天皇がおらず、祖父の後白河法皇が安徳天皇の次位としてわずか4歳の後鳥羽に天皇位を継がせました(なので安徳天皇と在位が2年ほど重なっています)。太上天皇である後白河法皇の院宣を受けて践祚(天子の位を受け継ぐこと)し即位式も行われましたが、その儀式は三種の神器が揃わない状態で行われたので「神器なき即位」と言われています。当時平家が三種の神器を持って西国に逃れていたためです。


三種の神器とは「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」のことで、この三種の神器の所持をもって皇位の証明となります。壇ノ浦の戦いにより三種とも壇ノ浦に沈みましたが、八咫鏡と八尺瓊勾玉は源義経が回収しました。
(※この時、実は本物の八咫鏡は源氏の手を逃れて隠されており、本物は赤間神宮に奉献されているという伝説については「赤間神宮」のページで紹介しています。)

もう1つの神器である天叢雲剣の本物は熱田神宮の奥深くに神体として安置されています。崇神天皇時代に天叢雲剣(草薙剣)の形代が作られており、それが三種の神器の1つとして天皇とともにありました。安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽が宝剣の捜索を命じていますが、結局発見されていません。(後鳥羽は以前に伊勢神宮の神庫から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣としました。)


と、なぜか三種の神器について報告してしまいましたので、後鳥羽上皇と後鳥羽神社の関係や鳥羽院の地名について興味のある方は本文最後をお読みください。長文になりましたので、飛ばしてくださってもかまいません。管理人が趣味で書いただけです。


後鳥羽神社境内の写真は、道路沿いの入口から拝殿へ向かっていく順番で掲載していきます。
ちなみに管理人は鳥羽院公園(後鳥羽山陵)には行かなかったので、後鳥羽神社付近の画像だけを掲載しています。またいつか訪れた時には鳥羽院公園まで足を運んでみたいです。
静寂の中に佇む神社には趣があり、管理人は好きな神社でした。


計21枚掲載。

 

 

 

後鳥羽神社入口

後鳥羽神社 案内板

後鳥羽神社の入口には「後鳥羽神社」と書かれたものすごく目立つ案内板と、後鳥羽法皇歌碑と、歌碑の隣に何かよくわからない石碑がありました。
この卵みたいな石碑は何なのでしょうか?
文字も書いてあるんですが、ほとんど読めませんでした。残念です。


後鳥羽神社 後鳥羽法皇歌碑

後鳥羽法皇御製
   かくばかり身のあたたまる草の名を
         いかにや人のひえと言うらむ

  後鳥羽院塚七百五十年祭典
  皇紀二千六百四十九年(1989年)二月二十二日
  明治天皇外戚  中山愛英


 

 

 

駐車場から後鳥羽神社へ

鳥羽院ふるさと自然公園案内図

駐車場にあった案内板です。管理人はこのまま後鳥羽神社へ向かいましたが、どうやら逆側に後鳥羽山陵や展望デッキなどがあったようですね。草スキーもできるだなんて、ちょっと楽しそうです。

 

後鳥羽神社周辺景色
山林の中を通って後鳥羽神社へ向かいます。
後鳥羽神社周辺景色
後鳥羽神社が見えてきました。

 

 

 

後鳥羽神社鳥居

後鳥羽神社の鳥居です。扁額には「後鳥羽神社」とあります。
建立年はちょっとわかりませんでした。

後鳥羽神社 鳥居

 

 

 

後鳥羽神社狛犬

後鳥羽神社 境内(狛犬)

後鳥羽神社鳥居傍の狛犬一対で、「狛犬」サイトの方では02番とナンバリングしています。画像は1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

平成13年(2001年)に奉納されていて、けっこう新しい狛犬ですね。阿形は口の中に玉があり、吽形は右足で玉を踏んでいます。
何と言うか、ちょっと魚っぽく思えてしまうのは背中の造形からでしょうか。


 

 

 

後鳥羽神社拝殿

後鳥羽神社 拝殿
後鳥羽神社 拝殿
後鳥羽神社 拝殿
後鳥羽神社 拝殿

写真の左奥に見えているのが本殿だと思います。拝殿・幣殿・本殿と続いているのでしょうね。
何も考えずに撮影したため、拝殿ばかりを撮ってしまって本殿が写っている写真はコレしかありませんでした。やはり何を写したいのか目的を持って撮影するべきでしたね。反省。

 

後鳥羽神社 拝殿横の滝

拝殿の左奥には滝がありました。
「みそぎ」というらしく、後鳥羽上皇が遊ばれた滝だそうです。

 

 

 

後鳥羽神社狛犬

後鳥羽神社拝殿前の狛犬一対です。「狛犬」サイトでは01番とナンバリングしている狛犬で、1枚目が吽形、2枚目が阿形です。

制作年代は不明です。
傷みもひどく、苔むした感じで造形もわかりにくいですが(そもそもスマホで撮影しているためブレているせいですが)管理人はこういう狛犬の雰囲気が好きです。阿形は口に玉を咥え、吽形は右足で玉を踏んでいます。けっこう小さなサイズだったように記憶しています。


 

 

 

後鳥羽神社について

ここでは後鳥羽神社と後鳥羽上皇の関係や鳥羽院(とばい)という地名の由来について書いていこうと思います。あくまでも管理人の推測、妄想を元に文章を書いていますので、中身を信用しないでください。すべてファンタジーです。けっこうな長文になりましたので、興味の無い方はご覧になる必要はありません。

 

以下は後鳥羽上皇について書くことになります。「後鳥羽上皇」と聞いてすぐに思い出されるのは「承久の乱」(1221年)ですよね。承久の乱は学校で習うので説明しませんが、後でちらっと出てきますので何となく思い出しておいてください。


さて、承久の乱後、後鳥羽上皇は隠岐島に流されて延応元年(1239年)2月に配所(隠岐島)で崩御しましたが、実は佐賀県神埼市脊振町鹿路を訪れてそこで亡くなったという伝説があります。「隠岐の島に流された後鳥羽上皇がひそかに当地に逃れ、稗粥をごちそうになった」という伝説があり、その伝説の名が付いた「稗粥地蔵」がこの地で祀られています。
伝説の内容その他について、ここでは神埼市のホームページ『神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」神埼まちあるき(3)伝説が息づく鳥羽院』を参考・引用させていただきました。


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【稗粥地蔵伝説】

昔、この山里に5、6人の供人を連れた都人らしい旅人の一行がたどり着いた。一行は一軒の小さな百姓家を見つけてその家を訪れた。中を覗くと薄暗い土間の隅で一人の老婆が炉を焚いており、美味しそうな匂いが漂っている。供人の一人が「われらは都から来た旅の者。はなはだ申し兼ねるが、食事の用意はできまいか」と言葉丁寧に頼んだ。老婆は都人らしい人々の口にあいそうな食事の用意などできそうにないので「あいにく都の人に差し上げるような食べ物の用意はできません。あるものは杣人(そまびと/キコリのこと)が食べる稗(ひえ)の粥ばかりでございます。」と申し上げたところ、「何ものにても結構。あれにおられるは都のさる高貴な方」と重ねて頼まれた。老婆はすぐに稗粥を温めて差上げたところ、一行は何杯もお代わりをした。この一行が隠岐島から密かにこの地を訪れた後鳥羽上皇の一行であったと伝えられており、稗粥で身を温められた上皇は、「かくばかり身のあたたまる草の名を いかでか人は稗というらむ」と謳われたのである。
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後鳥羽上皇が行宮(あんぐう:かりみや)にしたと伝わる「善信寺(旧名:教信寺)」には、元禄2年(1689年)に奉納された「鳥羽院王宮」の扁額や上皇の宸筆の書と伝えられるものが残されていましたが、大正14年の火災で失ってしまいました。

 

また教信寺裏山には後鳥羽上皇の山陵と伝えられる墳墓がありました。
大正元年12月20日、後鳥羽上皇の御陵墓清掃の際に石棺が発見されており、内部には二片の人骨が残されていました。石棺の蓋石裏には「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれており、当時の宮内省へも報告され、大正6年に現在の陵墓(後鳥羽山陵)に埋葬されたそうです。石棺の蓋に書いてある「西河左衛門太夫」とは後鳥羽上皇の陪臣「西川家房」という人物だそうで、当地が西川家房の知行地であったため、後鳥羽上皇は遷宮の地として当地を選んだと伝えられています。

 

 

 

後鳥羽神社(『佐賀県神社誌要』)

大正15年(1926年)に出版された『佐賀県神社誌要』は、国立国会図書館デジタルコレクションで確認することができます。後鳥羽神社についても『佐賀県神社誌要』に記載されていましたので、ここに該当部分を引用します。
画像をクリックすると拡大しますが、いわゆる旧字で記されているため、管理人が勝手に現代漢字、現代仮名遣いに書き換え、補足説明を加えた文章をこの後に掲載しておきます。

 

後鳥羽神社(『佐賀県神社誌要』)
後鳥羽神社(『佐賀県神社誌要』)

 

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村社 後鳥羽神社 神埼郡脊振町大字鹿路
祭神 後鳥羽天皇 七郎明神

仲恭天皇の御宇、承久の敗によりて、北条義時後鳥羽法皇を隠岐国に遷し奉りて、悲惨の御生涯に月日を送らせられける折、潜かに随臣西川左衛門大輔源家房に九州へ潜幸の旨勅令ありし故、家房即ち御諭に従い遂に肥前国神埼郡絹巻里に供奉したり。
此山奥の人々は常に稗を以て常食としければ、里民取り敢えず稗の粥を奉る。其時の御製に
   かくはかり身のあたたまる草の名を
     いかにや人のひえといふらん
との御製の宸筆を賜りしに、後火災にかかり焼失して、今は其焼余の宸筆を存ぜり。
かくて御不豫の事ありて延応元年二月二十二日宝算六十にて崩御ありければ、後方の山に葬り奉る。
今小山田の中に一畝歩(30歩)高き所あり、後鳥羽院山陵と唱ふ。且御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る。而して神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり。御神体は長さ八寸後落飾前の御姿を彫刻せるものにて、御烏帽子直衣(のうし:天皇の平常服)の御姿を彫刻せる御像なり。然るに随臣西川左衛門大輔源家房の計いにて此處に御住み給いしを秘し隠岐国にて崩御ありしと世上に披露し奉りしとぞ、されば此時よりして絹巻里を後鳥羽院村と称(とな)えたりしが、余り長ければ鳥羽院村と改めたる由申伝ふ。天さかる鄙(あまさかるひな:都から遠い鄙(ひな)。鄙は都の外の地。万葉集に出てくる枕詞)の習いにて恐れ多き事とも知らず、文字の差別あるをも弁(わきま)えず、天子の貴き御諡号(しごう。おくりな。天皇が崩御後に贈られる名前)を以て賤しき土民の居所の名に用いしこと、今更憚りありと雖も(いえども)数百年来称し来れる村の名なれば私には改め難き事なり。明治六年二月二十日村社に列せらる。無格社合祀により祭神七郎明神を追加せり。
  大正十三年五月十三日神饌幣帛料供進指定
  氏子戸数 百十四戸
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この 『佐賀県神社誌要』に記載されている後鳥羽神社の由来ですが、上記で紹介した『神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」神埼まちあるき(3)伝説 が息づく鳥羽院』(以下、長いので「神埼まちあるき」と表記することにします)に記載された内容と若干違う箇所がありますね。
詳しいことは管理人もわからないんですが、たぶん「神埼まちあるき」の文章は『肥前国誌』(1972年)『脊振村史』(1994年)をベースに記載していると思うんですよ。『佐賀県神社誌要』は大正15年(1926年)発行なので、ちょっと違うんでしょうね。
以下、管理人が2つを比較してみて気になった点や調べてみたことを書いてみたいと思います。

 

 

 

後鳥羽上皇の宸筆

まずは後鳥羽上皇の宸筆(直筆の書)ですが、「神埼まちあるき」も『佐賀県神社誌要』も、どちらも焼失したと言っています。
「神埼まちあるき」では後鳥羽が行宮とした教信寺にあったものが大正14年の火災で焼失してしまったとのことですが、『佐賀県神社誌要』には「御製の宸筆を賜りしに、後火災にかかり焼失して、今は其焼余の宸筆を存ぜり」とありますので、ちょこっとだけ焼け残っているようですね。(「焼余」「存ぜり」ですから。管理人は「存ぜり」は「存じている」つまり残っているという意味に捉えました。)
というか、『佐賀県神社誌要』は大正14年の教信寺の火災を知らないのではないかと思います。だって残ってますからね。だから、もしかしたら、上皇の宸筆は2回の火事に遭っているのかもしれません。一度火災で焼失したけどちょこっと残っていたものが、大正14年の教信寺の火災で全部焼失してしまったのかもしれませんね。

 

 

 

後鳥羽神社と御神体

後鳥羽上皇のお墓、つまり山陵は元々は善信寺(旧名:教信寺)の裏にありました。墳墓のことを住民の方は「塚」と呼んでいるそうです。
大正6年に現在の後鳥羽院山陵(現:鳥羽院公園)に埋葬されたとのこと。管理人は鳥羽院公園を訪れていませんのでよくわかりませんが、興味のある方は是非どうぞ。景色もよくて公園としても立派みたいですね。


「神埼まちあるき」によると、大正元年12月20日、御陵墓清掃の際に石棺が発見され、内部には二片の人骨が残され、石棺の蓋石裏には 「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれていたそうです。『佐賀県神社誌要』では「御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る。而して神殿の下に埋め奉りし石槨の蓋に御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり」とあります。


『佐賀県神社誌要』によると後鳥羽神社はそもそも教信寺の裏にあった山陵を指していた、ということになります。後鳥羽上皇が崩御したのは延応元年(1239年)2月ですから翌月には祠を立てて後鳥羽神社と称した、と。そして神殿の下に埋めた石棺の蓋に「御白骨二枚」と彫刻されている。と、ここまでは「神埼まちあるき」と『佐賀県神社誌要』の表記は同じです。「神埼まちあるき」の方が少し詳しいですかね。石棺の蓋には「白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれていたそうですから。

(どうでもいいですが、こういう史料的な意味でホームページに表記するならば「2枚」などと書かずに「二枚」と、文面通りに表記すべきだと管理人は思います。どう考えても当時「2」などという算用数字はありませんので石棺に書かれていた文字は「白骨二枚西河左衛門太夫奉拝」という表記だったと思いますよ。)


『佐賀県神社誌要』の方では「御神体は長さ八寸後落飾前の御姿を彫刻せるものにて、御烏帽子直衣の御姿を彫刻せる御像なり」とありますので、御神体は後鳥羽上皇の落飾前(法皇になる前)の姿を彫刻した像つまり烏帽子直衣姿の彫刻をした約24cmの像、ということです。
あ、もしかしたら『佐賀県神社誌要』の「御白骨二枚と彫刻ありし由伝へたり」という文章は、「御白骨二枚と彫刻した」のではなくて、「御白骨二枚と彫刻の2つがある」という意味なのかな?まあ、どうでもいいや。(←投げやりになってきたw)
要するに、後鳥羽神社の御神体は後鳥羽上皇の彫像だということです。
この彫像は現在の後鳥羽神社の御神体なのでしょうか?

 

 

 

西川家房とは

石棺に書かれている「白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」の「西河左衛門太夫」とは、後鳥羽上皇の陪臣で「西川家房」という人物のことです。この地が西川家房の知行地であったため後鳥羽上皇は隠岐島から当地へ遷宮しているわけですが、実は「神埼まちあるき」ではこの人物のことが詳しく書いてありませんでした。「後鳥羽上皇の陪臣」と管理人は書いていますが、これはネットで検索した結果、たぶんそうだろうと思って書いたものです。隠岐の国人と書いてあるサイトもありましたし。「陪臣」とは、直接の家臣ではなく、家臣の家臣、という関係です。


「西川家房」という人物はネット検索では挙がってきません。しかし、鳥羽院付近は代々西川家が支配していたようで(教信寺の住職は代々西川家が務めていたそうです)戦国時代の鳥羽院城主は西川氏です。龍造寺隆信時代、神代氏に従属していた人物の中に鳥羽院城主西川伊豫守がいます。(のち、殺されますけど。)たぶん、この西川伊豫守の先祖が西川家房なのでしょう。
『佐賀県神社誌要』によると「随臣西川左衛門大輔源家房」とありますので、源家房で検索してみたけどやっぱり出てこない。ネットでは無理なぐらい知名度の低い人物なのでしょうか。「随臣」は「おつきの人」ぐらいの意味でしょうかね。


※後述している『佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」』では「西川左衛門太輔源安房」と表記されていますが、「安房」の名前でネット検索してみても、やはり出てきませんでした。謎の人物ですね。

 

 

 

なぜ地名は後鳥羽院ではなく鳥羽院なのか

この疑問に対する答えは『佐賀県神社誌要』にきちんと書いてありましたね。「絹巻里を後鳥羽院村と称(とな)えたりしが、余り長ければ鳥羽院村と改めたる由申伝ふ」と。
つまり、絹巻里(元の地名)を後鳥羽上皇が遷宮されたことで「後鳥羽院村」と称したけれども、名前が長いので「鳥羽院村」に改めちゃったよ、と書いてあるんですが、改め方がヒドイ。「後」を取っちゃっただけかよ!とか思ってしまいますね。


地名に関しては『佐賀県神社誌要』でも手ひどく怒っていて、「天さかる鄙の習いにて恐れ多き事とも知らず、文字の差別あるをも弁えず、天子の貴き御諡号を以て賤しき土民の居所の名に用いしこと、今更憚りありと雖も数百年来称し来れる村の名なれば私には改め難き事なり。」と嘆いています。
意訳すると「こんな都から遠く離れた地だからと言って恐れ多いことも知らず、使っていい文字とそうじゃない文字があるということさえ弁えず、天子の貴い名前を賤しき土民(土民!w)の地名に用いるなど何ということだ!!とは言っても、もう数百年も使ってきた村の名前だから今更変えられないし‥‥ああっもう!(`・ω・´)」って書いている(笑)

数百年も使ってきた村の名前だし、もちろん伝説を大切にしているからこの地名なわけで、管理人は鳥羽院という地名は素敵だと思います。
誇りを持てる良い地名だと思います。そんなに怒らなくてもいいと思います、ええ。

 

 

 

地名「鳥羽院」の由来(別説)

ここまでは後鳥羽神社の由来みたいな感じで書いてきましたが、実は管理人的には史的な点で疑問があるのです。
それは、地名「鳥羽院」の由来が「後鳥羽上皇がいたから」という説の根本的な問題なのですが、後鳥羽上皇は当時「後鳥羽」とは呼ばれていなかったという事実があることです。後鳥羽上皇は当地に遷宮した当時、後鳥羽という名前を持っていません。


そもそも、天皇の名前を同時代の人々が口にするなんてできっこないのです。もちろん上皇であっても同じです。
もちろん天皇にも名前はあります。例えば後鳥羽上皇ですが、本名は「尊成」です。ですが本名は口に出してはいけないものだし(だからこそ「諱(いみな)」「忌む名」というのです)天皇の本名を呼ぶなど言語道断。現在でも天皇陛下のことは「天皇陛下」「今上天皇」としか呼びませんからね。そもそも昔は、下々の者は天皇の名前など知らないのですよ。
今私たちが「後鳥羽上皇」と呼んでいるのは、崩御後に朝廷から贈られた名前「諡号(おくり名)」を呼んでいるのです。
そして非常に重要なことなんですが、後鳥羽上皇が最初に贈られた諡号は後鳥羽ではありませんでした。「顕徳院」なのです。
諡号が「顕徳院」だったことが重要だと管理人は考えていますが、その理由、わかりますでしょうか?


上記『佐賀県神社誌要』では「御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」とあります。でも延応元年(1239年)当時「後鳥羽」と呼ばれた天皇・上皇はいないのですよ。亡くなった翌月になぜ「後鳥羽神社」と称することができたのでしょうか。
呼ぶなら「顕徳」でなければいけないのですよ。延応元年に神社が建立されたならば、神社名は「顕徳神社」だったはずなのです。


もちろん、「のちに後鳥羽神社と称するようになった」という意味ならば別ですが、そうであるならば『佐賀県神社誌要』は「のちに」と書いておかなければいけません。でも『佐賀県神社誌要』では「御遺勅によりて」とあります。勅を出せるのは天皇や上皇だけです。そして「遺勅」とあるのですから勅を出したのは既に亡くなった人物、つまりここでは後鳥羽上皇以外いません。『佐賀県神社誌要』は「後鳥羽神社」と称したのは上皇本人の遺言だと断じているのです。なぜ、使われていない名前を上皇は遺言できたのでしょうか。ちょっと辻褄が合わないと管理人は思ってしまうのです。



後鳥羽の「御遺勅」が「自分が死んだら祠を立てて後鳥羽神社という神社名にしろ」ではなく単純に「自分が死んだら祀ってくれ」という遺言だったとしたら、それはそれできちんと『佐賀県神社誌要』は書いておかなければならないと思いますし、そもそも「自分を祀れ」と遺言して亡くなる(崩御する)ことなど当時、特に後鳥羽上皇の場合は考えられないと管理人は思います。理屈に合わないからです。

 

ということで以下、管理人の妄想を述べます。

ただの屁理屈、あくまでも管理人の推測ですので、何か気になる点があったとしてもスルーしてください。たかが妄想文章です。

 

さて、実在の人物が神として祀られる場合(人神)、考えられるのはその人の遺徳を偲んで祀られる場合と、憤死した人物が怨霊化することを防ぐために祀る場合の2つです。特にこの時代は怨霊化を防ぐ意味で不幸な亡くなり方をした人物を祀る例が多い時代です。
後鳥羽上皇は上皇でありながら隠岐島に流され許されることなく崩御していますから都の人々や鎌倉幕府の人々からは怨霊化してもおかしくないと思われていたことでしょう。でも後鳥羽上皇本人は「自分を祀れ」とは遺言しないと管理人は思います。「自分を祀れ」とはすなわち「自分を祀らなければ災いを起こすぞ」という意味になるからです。(ただ死後に自分を祀ってくれという願いの場合に関しては後述しています。)


後鳥羽には「恨んでやるぞ」という想いがあったとしても「自分を祀らなければ祟るぞ」との考えには行かないと管理人は思っています。
上皇は実際に血の気の多い人物です。天皇位にありながら武芸に関心があり自ら刀剣を鍛え、盗賊を退治したこともあります。(後鳥羽が自ら鍛えた刀剣に菊の紋を好んで入れていたことが、現在の天皇家の菊花の御紋章の由来となっています。)源実朝が亡くなったのを好機として幕府に反旗を翻したのは後鳥羽上皇だったからこそです。他の天皇や上皇にはこのような気概はないです。

 

そういう後鳥羽が流刑地で崩御する。自分を不遇の目に遭わせた朝廷や鎌倉幕府に対して何の想いもないとは思えません。自分は現人神なのです。天皇であることの意味を現在の象徴天皇と同じだと考えないでください。当時の天皇はまさしく現人神なのです。それなのに、現人神である後鳥羽は流刑地で憤死しているのです。二度と都には戻れなかった。だからこそ「自分を祀らなければ祟る」などの条件を出す必要などありません。「自分を祀ってくれたら祟らない」と思うはずがないのです。何があっても祟るからこそ鎮魂や怨霊化を防ぐ意味で、不幸な亡くなり方をした人物は神社に祀られるのです。
ちょっとややこしいのでわかりにくいかもしれませんが、ニュアンスを理解してくださいね。大げさに言うと「自分を祀れ」という遺言はあり得ないのだ、ということです。実際に歴代の天皇や親王などで怨霊化を恐れて祀られた人物で「自分を祀れ」と宣言した人物はいません。「祟ってやる」と声高に宣言した人物はいますが「自分を祀れ」「自分を祀ってくれたら祟らない」とは言っていないのです。


ちなみに「顕徳院」という諡号に「後鳥羽院」という諡号が追号されたのは仁治3年(1242年)です。なぜ「顕徳」から「後鳥羽」に変わったのかは諸説ありますが、怨霊化が関係している説を管理人は採っています。言い方が悪いのですが、実際に後鳥羽上皇は怨霊になっています。というか怨霊になったと当時の人には思われていました。だからこそ一度贈った諡号に4年後また追号されたのです。(という説を管理人は採っています。)


以上、流刑地で憤死した後鳥羽上皇が「自分が死んだら祀ってくれ」と遺言する可能性はほとんどないのだ、ということを書いてきましたが、「自分が死んだら祀ってくれ」という遺言がただ「死んだら自分を祀ってね」「自分が死んだらお墓を立ててね」ぐらいの願いだったと考えることもできますよね。お墓を作ってくれとの遺言だったからその通りにして、山陵の前に祠を立てて後鳥羽神社と称した、という流れです。
この場合の遺言は、実際に天皇や上皇が崩御すると陵が造られるわけですから必ず叶う願いになります。でもあくまでも「墓を作れ」レベルの遺言であり、誰も「神社にして祀れ」とは言っていないのです。神社にして祀ったのは誰か?と考えた場合、それは上皇本人ではなく周りの人々の意思となります。

 

何が言いたいのかというと、後鳥羽上皇が後鳥羽神社に祀られた理由ですが、それは上皇本人ではなくあくまでも別人の意思によるものだ、ということです。
後鳥羽上皇に関しては怨霊化する可能性があったため鎮魂の意味も込めて祀られたと考えるのが筋が通ります。ですので「御遺勅によりて、延応元年三月御祠を立て後鳥羽神社と称し奉る」という『佐賀県神社誌要』の記述は少し信憑性に欠けるわけです。
後鳥羽上皇の遺言で神社を建立した(祠を立てた)という説は容易に信じられないのと同時に、当時「後鳥羽」という諡号(おくり名)は存在しなかったというのが、管理人が鳥羽院の地名の由来に疑問を持つ理由です。



鳥羽院は「後鳥羽とは呼ばれていなかった上皇」が滞在した土地です。確かに上皇が崩御した年に建立された神社があるし「後鳥羽神社」と神社名が付けられたけれども、それは明らかに後年のことです。「後鳥羽上皇がいたから鳥羽院という地名になった」という地名の由来は本当なのでしょうか。(色々と書いてきましたが、この長文の主題はコレです)


このページ冒頭の説明部分にも書いていますが「鳥羽院」が実在するんですよね。後鳥羽上皇のひいおじいさんです。普通は「鳥羽院」といえば第74代鳥羽天皇を指すはずなのです。(明治以降、院号は廃止されたので諡号は鳥羽天皇となります。後鳥羽も同じく追号された当時は「後鳥羽院」でした。)
管理人はどうしてもこの点に引っ掛かるのです。「鳥羽院」という地名は後鳥羽上皇ではなく鳥羽上皇に関係するのではないか?と思えて仕方がないのです。だって「後鳥羽院村」という村名にしたけど長いから「鳥羽院村」にした、とかちょっと無理があるでしょう。1文字「後」を取っただけですからねぇ。読み方を「ごとばいんむら」から「とばいむら」にしたと言うけれども、やはり長いから省略するというには無理があるような気がします。「ご」と「ん」を抜いただけだし。

 

などとひねくれた考えの管理人が色々と検索してみた結果、面白いことを書いてあるページを見つけましたので紹介しておきます。
佐賀市地域文化財データベースサイト『さがの歴史・文化お宝帳』の「布巻観音」のページです。
佐賀市高木瀬の長瀬天満宮にある布巻観音の由来を書いてあるページですが、この布巻観音が神埼郡脊振村鳥羽院に伝わる絹巻観音伝説と関わりがある、ということで鳥羽院について触れてありました。以下、該当部分を引用します。


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神埼郡脊振村に鳥羽院という一地区がある。トバイと読みその昔後鳥羽天皇が隠岐の国から御潜幸になり、西川左衛門太輔源安房が供奉して来たという伝説の地で、今も後鳥羽天皇の御陵と稱する塚や後鳥羽神社などがあり、西川氏の嫡流が代々住職をしている教信寺という真宗のお寺もある。鳥羽院はもと絹巻の里といった。(中略)
昔鳥羽天皇の側近を守護するいわゆる、北面の武士に藤原季慶という者があった。武勇の誉れも高く、鳥羽帝の信望も厚かった。季慶は、高木城々主藤原季経の二男、季家を養子として、自らは入道隠遁して、宿阿法師と号し、従兄に当る西行法師(佐藤義清)と共に諸国を行脚し、後この鳥羽院に落ちつき一庵を結び、 鳥羽上皇のために菩提を弔った。
これが、現在鳥羽院にある教信寺というお寺であり、山号も鳥羽院山という。(中略)
季慶が仕えた鳥羽天皇と鳥羽院に潜行されたという後鳥羽天皇との間には7代約180年の年代の差があるが、隠岐に流された後鳥羽上皇がお名前にゆかりのある鳥羽院村をたどって潜行されたということもあながち考えられないことではなかろう。
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答えがわかったような気がしませんか?
というか、この説ならば管理人的にはちょっとスッキリしますね。元から「鳥羽院」と呼ばれていた地名だった、ということですよ。
後鳥羽上皇の曽祖父である鳥羽上皇の家臣、北面の武士藤原季慶が従兄の西行法師と諸国を行脚しているうちに当地に落ち着き、鳥羽上皇の菩提を弔った。これが教信寺であり、山号も鳥羽院山と称し地名も「鳥羽院」となった。そこに後鳥羽上皇が遷宮されて伝説が根付いたのだ、と考えるとスッキリしますね!
(こちらでは「西川左衛門大輔源家房」が「西川左衛門太輔源安房」表記になってますが、検索しても出てこないので無視しますw)



ちなみにこの引用部分に出てくる「藤原季慶」ですが、これまた謎の人物で正直困ります。
同じく佐賀市地域文化財データベースサイト『さがの歴史・文化お宝帳』の「末次の起源」ページに藤原季慶が出てきます。
「第76代近衛天皇の時代に鎮西の監視役として派遣されてきた藤原秀郷の孫、藤原季清が佐賀に来て龍造寺村に館を構え、その第5子である季慶(季喜)は父の職を継いで小津の東郷槇村(今の市内水ヶ江)を賜る」「季慶には子が無かったので、高木の城主藤原季綱(季慶の母の兄弟)の次男季家(南二郎)を養子とした」とのこと。
鳥羽院のお話に出てきた第74代鳥羽天皇と、末次のお話で出てきた第76代近衛天皇って、もう既に年代が違うんですけど‥‥(´・ω・`)
鳥羽院のお話では藤原季慶は北面の武士だったんですけどね。末次のお話では父の職を継いでるから鎮西の監視役ですよね。なんで同じサイトなのにちょいちょい違うの?

 

なんてことを気にし始めると収拾がつかなくなりますので、もう終わります。
とりあえず管理人は、「鳥羽院」地名については「元から鳥羽院と呼ばれていた」説を支持することを宣言しておきましょう。